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永平寺重興森田悟由禅師

曹洞宗には本山が二つあります。一つが福井県にある永平寺。これは全国的にも非常に有名な本山になるかと思います。もう一つが、神奈川県鶴見区にある總持寺です。こちらの本山は知名度は永平寺ほどではないのですが、活発に布教活動している本山です。總持寺は元々能登(現在は總持寺祖院)にありましたが、明治時代に神奈川県鶴見に移転いたしました。石原裕次郎さんの墓地がある事で関東では有名になります。

他の他宗を見ると極めて珍しい派閥のない、宗派になります。しかし、長い歴史の中で、両本山が仲たがいし、分裂してしまう騒動が幾度かありました。もっとも緊張が高まったのが明治時代にありました。その分裂騒動を治めて、現在の宗門の偉大な礎を築かれたのが、永平寺六十四世・森田悟由禅師になります。

この森田悟由禅師と青岸寺との関係と共に森田悟由禅師をご紹介させていただきます。


森田悟由(もりた ごゆう)俗名:常次郎 道号:大休悟由 禅師号:性海慈船禅師

             別号:「六湛」「六湛庵」「空華」

森田悟由禅師は洞門近代巨匠の一人であり、明治期仏教界の泰斗と仰がれたひとである。永平寺貫首に就任されてから25年間の間も全国各地を御親化で布教巡回され、戎弟は30万人、血脈授与は100万人以上に上り、新寺建立及び、復興した寺院は二十二ケ寺にわたっている。その布教巡回の際に、米原駅に近かった青岸寺に書院(六湛庵)を施工させ、宿泊場所として利用している。

森田悟由禅師が假宿(六湛庵)

※青岸寺パネル参照


『重興の尊称をうけた功績とは』

永平寺監院寮に保管されていた「監院寮記録書類第四号」の「慶弔会式礼 大正五年十一月一日」によれば、大正五年十一月一日に厳修された永平寺における本葬のことが記されており、それには、永平寺の重役、顧問が協議した上、大本山總持寺貫首石川素童禅師の同意を得て、「重興」を賜れていることが明らかである。また「大正五年一一月一日 慶弔式礼関係書類(甲) 大本山永平寺」をみると、本葬当日に仏事師の法語があり、これにも重興が読み込まれていることから、本葬儀当日に重興の称号が決定したことがわかる。

 では、重興と尊称される功勲とは何であろうか。まずあげられるのが両本山分離事件を阻止し、両山盟約を護持し、曹洞宗を分離せずに発展させた功績が第一である。この功績は、今日の宗門がある永遠の功勲ともいえる。

 その他の功勲は。永平寺で授戒会を開き、それ以後、毎年修行することを定め、檀信徒教化をすすめたことである。そして、大本山總持寺貫首西有穆山禅師と協議して曹洞宗大会を開き、教学の拡張や制度の改善などを計って、宗門興隆の礎を築いた点も評価に値できる。

 道元禅師の六百五十回大遠忌を厳修する為、永平寺の仏殿、僧堂、瑞雲閣などの諸堂を大改築し、佛器、法器、什具などを新調して、永平寺の荘厳を一新された。さらに本山布教師を全国に特派し、吉祥講を組織するなどして、永平寺参拝を大いに推進させたことであろう。また、眼蔵会を開催し、一般の人でも提唱を聞くことができるようになった。さらに、大本山總持寺貫首石川素童禅師と協議し、宗憲以下宗門すべての法規を大改正するなどして綱紀を粛正した点なども評価すべきことである。

 しかも、禅師は明治維新によって永平寺境内地の外上地されたため、新しく田地二十余町歩、山林百余町歩を取得し、また、植林を経営して、永平寺の永遠の維持管理の礎を築かれたのである。

さらに、明治二十四年に入山以来、大正四年の示寂迄の二十五年間、全国各地に御親化され、戎師三五〇余会、戎弟三十万人、因脈、血脈授与百万人以上ともいわれており、請されて新寺建立及び法地起立して復興した寺院は、二十二ケ寺にわたっており、永平寺直末を加えていった点などの功勲が「永平寺重興」と尊称された理由である。

※「永平重興 大休悟由禅師広録 別冊解題」・「情熱の気風」等を参照にしています。


以上が森田悟由の残した目に見える功績といえます。他にも思想として多くの偉人や著名人にも影響をあたえています。時の大正天皇も「天下の名僧」と発言されるほど、当時の森田悟由禅師の高名は日本中に響きわたっていました。特に有名な逸話は、かの伊藤博文との関係があげられます。


『森田悟由禅師と伊藤博文』

森田悟由禅師と伊藤博文との出会いは明治二十七年である。初見で二人は意気投合した。英雄、英雄を知り、好漢、好漢を知る。その後、伊藤は、度々悟由禅師と相対している。

 明治三十二年(一八九九)十月。伊藤博文が永平寺を訪れて悟由禅師と再会した。

 悟由禅師は伊藤を不老閣に迎えて膝を交えて会談した。

 話が明治維新前後のことになったとき、伊藤は何度も刺客に襲われたが命拾いしたこと、幕府の長州攻めで苦労して長州藩を護ったこと、死を覚悟して外国の軍艦に乗り込んだことなど、徳川幕府を倒して明治政府を樹立するまでの苦労話を熱を込めて語った。

 そして話終えてから、やや誇らしげに悟由禅師にこう問いた。

「禅家では苦しみに耐えて厳しい修行をして、人間をつくるというが、白刃の下をくぐって生き抜いたわしのことを貴僧はどう見られるか。」

 伊藤の心中には寺の中で坐禅を組んで悟ったつもりの禅坊主などは、実際に危機になったとき、何の役にも立たないだろうという見くびった気持ちがあった。

悟由禅師は冷眼で伊藤を一瞥した。

「人間も昔の自慢話をするようになってはもう終わりだ。昔の自慢話よりも、今から前に進むことを考えてこそ、生きている価値がある」

 この言葉に伊藤も兜をぬいだ。

「いや、悟由禅師。一本取られました。よい教訓です。」

 明治政府の大政治家にも臆せず、忠告できる悟由禅師。自分の欠点をつかれても怒らない伊藤。後に何のわだかまりも残さない明月のような心境の二人であった。

『伊藤博文公遺愛、鉄制の茶碗』

 伊藤公が韓国に赴かんとするや、写真一葉を禅師に呈して決別の記念とした。実際に伊藤公は凶弾に倒れた。

 伊藤公の未亡人は公遺愛の銀制の茶碗と最終の写真とを遺物として禅師に贈られた。

『悟由禅師が伊藤博文公への追悼の言葉』

七十年來奉至尊 身心出處報皇恩 

無端忽觸匪徒手 蓋代功勲是命根


非常に優れた人物であった森田悟由禅師ですが、宗門においても語られる事は少なくなってきました。今一度、宗門における優れた祖師たちの築いた礎に敬意を表して、しっかりと学び直す必要があると、考えています。

森田悟由禅師のような曹洞宗を代表する名僧とご縁があるというのは、青岸寺にとっても、拙僧にとっても非常に有り難い事です。少しでも一般の方に森田悟由禅師を認知していただければ幸いです。

青岸寺には森田悟由禅師の遺品、書、詩、などの貴重なものが多く残され、それを展示しております。興味がございましたら説明させていただきます。是非御来山ください。

住職 永島 匡宏 合掌

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