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草取りも是禅?/住職日記

書院にて坐禅

6月になりいよいよ蒸し暑い時節になりました。

山寺ではほっとけば草木が多い茂りますので、日々が作務(掃除)に追われ一日の大半を草取りで終えるなんて事は往々にしてあるわけです。

6月を過ぎると、蚊も発生し、土を見ればムカデがうようよ、脇にはススメバチがぶんぶん。下手に草むらに入ればマダニに咬まれますし、マムシなども隠れています。山寺の作務は危険でいっぱいであります(笑)よく対策をして作務にでなければ後でえらい目にあう事はよくある事です。

私は草むしりが昔から苦手でして、ただでさえ、上記のような危険な状況の中、じっと同じ場所で同じ動作を続けるわけです。人によっては気が狂うような作業です。

対策として、携帯を携えて、YouTube(ラジオ)など聞いて作業をするわけです(今聞いているのは藤田一照老師と山下良道老師のお話が多いです)。最初はそれで作業が進むのですが、気が付くとラジオも飽きはじめます。次に思考遊びをしたりします。

雑草を一本一本根っこから取っていると「これも立派な殺生ではないか。戒律としてはどう考えるのだろうか?」、など訳の分からん事を真剣に考えたりします。そんな思考遊びもいつのまにか終え、一本一本草を引く。

ひたすらに只、草を引いている事に没頭している時間がでてきます。

苦手な作業を無心(正確にいうと無心に近い)で2時間、3時間続く事もある。我に返ると日が暮れている。こんな事が時々あります。

思えば先代青岸寺住職(現:彦根長純寺住職)は、朝から晩まで毎日草むしりをしていた事を思い返します。明朝から19時まで作務をすることが当たり前の如しと言わんばかりの所業に、当時の私には異常な姿に見えたものです(失礼ですね)。

ふっと考えると、長時間草むしりをしている自分もまったく同じ姿をしているわけです。腰は痛くなる。足も痛くなる。汗は滝のようにでる。いい事なしです。ただ振り返ると綺麗になった庭がある。不思議でないが、不思議な気持ちになります。

草むしりは目的(綺麗に清掃する)があるのですが、次第に目的を忘れただ作務をしている自分がいて、我に返ると結果が達成されている。もはや結果が大事ではなく、その過程に妙な喜びを感じるのです。

(幸い、青岸寺では作務をすればするほど拝観者に喜んでいただける環境でもあります。)

坐禅も坐禅を目的として坐り始めますが、やがて目的を忘れただ座る、曹洞宗の坐禅「只管打坐」となります。

この目的を忘れて、ただ作務をしている姿こそ只管であり、禅定にはいっている事に気づきます。そして自分のおける環境が新しいものに感じたりします。(すぐ忘れますが。)

日々が修行であるとはいうものの、中々現代社会における寺院における僧侶というのは中々修行する事は難しいのが現状です。そんな中で私はこの草取りに先代亮昭老師の作務姿から禅の教えを受けた気がいたします。

ということで、前ほどは苦手意識が薄くなりましたが、まだまだ億劫な気持ちがあるのも確かで、修行不足が否めませんが、草取りをする事。これもまた、禅の実践であります。

住職日記は思ったことをただ書き綴っています。仏教の教え、禅の教えではなく、私の私的考えを述べております(何々があった。だからこう思った。などの程度です)。暇つぶし程度にみていただくのが正しい読み方でありますのでご理解下さい。

住職 永島 匡宏 合掌

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