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住職日記/一切なりゆき

青岸寺参道の紅葉

皆さんごきげんよう。今日から全国的に寒くなってまいりました。新型コロナウイルス感染者も右肩上がりの増加傾向がありますし、心身共に憂鬱になりそうです。

そこで、思い出した言葉がありましたのでご紹介いたします。「一切なりゆき」。

誰の言葉かわかりますか?偉いお坊さん?歴史上の偉人?文脈的には禅的な印象のある言葉。名のある

実はこの言葉は故、樹木希林さんの生前のお言葉です。

樹木希林さんはお亡くなりになって早2年以上が経ちました。特別私は彼女のファンというわけではなかったのですが、彼女の生きざま、佇まいが何ともいえない雰囲気を醸し出し、好感の持てる女優さんでした。旦那さんが故内田裕也さんというのも彼女を語る、一つの要素にもなっています。

YouTubeなどで樹木希林さんのインタビューなどを拝見すると、彼女から紡ぎだされる言葉はまるで禅宗の僧侶が語るような、禅語録を聞いているような気分になります。

この「いっさいなりゆき」もその一つです。私は言葉とは誰が何を言うかが重要だと考えております。

実際に私たち宗門に生きる人間には、お釈迦様の教え、道元禅師の教え、名僧たちの言葉を学び仏道を生きるわけです。ですが、私のような凡夫が道元禅師の言葉をいくら真似てお話しても、そこには実がなく虚がでてきます。ですから、曹洞宗では実践の中から得た、体験を重視し、言葉は後から実感として体現して初めて理解となり、真実の言葉にできるものと考えるわけです(その真実すらいらない)。

私はただお話が上手な人や有難いお話をしてくれるお坊さんの話はまったく心に届きません。しかし、樹木希林さんの言葉は何故か心に響くのです。

このインタビュー形式でお話している時に出た「一切なりゆき」。周りからは笑い声がでました。なぜ、笑うのか?自身の体験と見識では理解できてなかったのでしょう。

私は彼女の言葉を聞いて驚きました。私は彼女の状態をしっていたからです。

当時の彼女は全身癌を宣告され、余命僅かな状況でした。

想像できますか?自身の命が明日にでも失うかもしれない、新型コロナウイルスに感染してしますかもしれない、そんな状況で、「いっさいなりゆき」にまかせて生きれますか?私には無理です。

私なら、死ぬまでにやるリストを作って、やり残したことがないようにあれやこれやとジタバタしそうです。彼女にはそれがない。何故か。

彼女はその時その時を生きていて、今に身をまかせ、全てをあるがままに受け止める用意ができている(自身の死すらも)。これは常人ではありません。

良寛和尚の言葉に「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候、これはこれ災難をのがるる妙法にて候」とおっしゃっています。

この言葉に通ずる心境ではありませんか。そして、彼女の最後の映画作品の題名は奇しくも「日日是好日」です。

樹木希林さんは仏教を学んでいる事もないと思いますし、それでも彼女の生き方、者の捉え方はまさに禅僧のそれであり、仏教の考え方をされていると思います。女優さんの人生の中で沢山の役を演じるうちに様々な境遇や価値観を知り、自分のものとしたのか?何回も人生を経験してないと、凡そ、この言葉は出てこないと思います。

私から見たら立派な禅宗のお坊さんのような素晴らしい方でした。「一切なりゆき」は私の一つの禅語として心に刻んでおります。そして、今の状況だからこそ、考え方は生きやすくなる一つの指針ではないかな、と思っております。

住職日記は私の普段考えている事や日常を書いているだけのものです。あくまでも個人的感想なので、暇つぶし程度に見るのが正しいものですのでご了承下さい。

住職 永島 匡宏 合掌

余談①

最後になぜ、樹木希林さんは内田裕也さんに惹かれ、最後まで夫婦であったのか。樹木希林さんはこの世が空であり、世界は自分と世界ではなく、同一したものだと理解していたと思います(自己すらも空)。ところが、内田裕也さんという方は、まるで真逆の概念で、世界は己が中心に回っている考え方をしていそうです。

そんな内田裕也さんが自身の世界観をぶち壊してくれる唯一の存在だったのかもしれません。諸行無常、一切皆苦の世界をもがき暴れる姿に救いがあったのかもしれません。余談でした。

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