子供から気づかされる日々/住職日記
皆さん。こんにちは。
先月、長男がお世話になった保育園を卒園して、近くの小学校に入学し、新たな生活が始まっております。
年々、大きく成長している息子、日に日に中年のおじさんになっている私。常ならぬを命を実感します(笑)
さて、長男は小さいころから成長が人より遅く、特に言語、コミュニケーションが得意ではありません。
保育園での出来事、小学校での出来事は本人から伝えるのが難しく、先生や友達から教えてもらいます。
そんな彼が保育園での運動会、発表会、小学校の登下校で頑張る姿は毎回感動してしまいます。
毎日ではありませんが、時々私が「のの様にご挨拶に行くか?」と聞くと一緒に来て「いつもありがとうございます」と言って手を合わせて感謝しています。
最近では自分から「のの様にご挨拶に行ってくる」ということも増えて、陰ながら小さい仏の心の成長を見守っております。
さて、親の思うようには子供は勿論育ちません。子供が癇癪をおこせばイライラもするし、感情的になってしまうこともあります。未熟な自己に反省する日々です。
親になって6年。育てているようで育てられている。そんな気がします。
子供と一緒にいると、修行時代から独身時代には存在していなかった自分とよく出会います。
独身時代、私は全ての起因する感情(怒り、喜び、悲しみ)を自分でコントロールできると思っていました。しかし、子供ができて直ぐに大きな過ちに気づきました。自身に対する過信、傲りが可視化されます。
ままならぬ存在である子供と相対していると喜怒哀楽が非常にゆれる自分がいます。幼い子どもは突然お漏らしをしたり、夜泣きしたり、公共の場で騒いだり、とても平常な状態ではいられず、いらいらしたり、不安になったりと感情が落ち着きません。修行時代とは真逆のような環境です。
子供がいなければわからなかった「私」の負の内面性に気づき、それを俯瞰的に観察する。他者にこそ自己が存在(内在)していることが実感を伴い理解できます。
「出家」と「家庭」という、伝統仏教では相反する矛盾である日本の仏教ですが、この家族を持つという行為が日本の「大乗仏教」としての僧侶として伝えられる役割も多分にあります。
家族を持ち、子供と共に成長し、その中で仏教実践と共にお釈迦様、道元禅師、瑩山禅師に手を合わせ佛弟子として禅を追求する。これも一つの仏道でありますし、今日の日本曹洞宗を支える一つの要因でもあります(特にこれからの時代は家庭を持つ僧侶の態度が重要であると認識しております)。
ままならぬ世(全ての環境要因)、をありのままに生きる。祖師方はもちろん、子供から教えてもらう仏の教えが日々の一瞬一瞬にあります。
世間で生きる僧侶は確かに、世俗の垢にまみれた存在かもしれません。だからこそ、僧侶(私自身)が泥に花開く蓮を目指して日々精進を忘れてはいけません。(実践なく世俗として生きるならば僧侶になる必要性がない)
お釈迦様も道元禅師も世俗から僧侶は離れて仏道修行を行ずる事を指針としております。しかし、現実に日本仏教は世俗と共に生きる道を選んでおります。そこには大いなる矛盾を抱えざるおえない現実があります。
だからこそ、煩悩を真っ向うから見つめ、観察し、日常を通して自己解決しなければいけません。
多くの気づきを与えてくれる家族。特に子供に感謝です。毎日が修行です(笑)
今日も長男は小学校に元気よく集団登校しております。
※住職日記は住職の個人な日常がメインです。仏教とは無関係なことがほとんどです。暇つぶし程度に見るのが良いかと思います。
※藤田一照老師も家族を持つ禅僧としての見解を書籍「感じて、許す仏教」にて言及しておりますので興味がある方は拝読を推奨いたします。
住職 永島 匡宏 合掌
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