禅と庭園/住職日記
朝、本尊にお供えに庫裏から出ると、庭園が見える。管理者であるが、毎回庭園の見事さに感動する。
青岸寺庭園は1678年に作庭され、1934年(昭和九年)に重森三玲氏の推薦もあり滋賀県でも最初に国指定美衣装庭園に登録されています。
゛観音菩薩の光明一辺と広がり、有縁無縁の成道ここにあり。坐して黙せば仏海に漂うが如し。自性を忘却し仏性を円とする。自性、仏性合わせれば仏の掌で遊ぶ禅ここにありと ゛
禅宗の寺院に庭園は多くあります。禅と庭園の祖といえるのは臨済宗の夢窓疎石(1275年‐1351年)によるところが大きいと思われます。禅庭、枯山水の完成者として作庭者としても世界最高峰の一人であります。
禅宗と庭園は非常に密接であり、特に臨済宗系の寺院に多く存在する。曹洞宗ではほとんどなく、青岸寺は非常に珍しい寺院であります。特に国指定名勝庭園となると宗門では数か所しかありません。
曹洞宗に少ない理由は明白で、曹洞宗の坐禅は面壁坐禅、壁に向かって座り、集中対象を坐禅中に作りません。庭園などは坐禅の邪魔にしかなりません。
一方、臨済禅は面壁をして座りません。臨済宗ではなぜ庭園を必要としたのかは、臨済宗の歴史や庭園の歴史を調べてもらえばわかる事かと思います。私の専門とする宗旨でもありませんのでここでは深く明記いたしません。
住職日記では私見をだらだらと書き綴るだけですので、知識を得たい方はここより本や違うブログをご覧にならないでください(笑)ここからは感想程度のものです。
さて、時々暇つぶしに青岸寺庭園を見ながら坐禅をしていると非常に面白い事がわかります。
うっすらと目を開けて、視点を変えていると、石組みが浮かびあがる現象と、苔が浮かびあがる現象が起こります。
そこから暫く座っていると、最初は庭園と自己とが対立していた感覚が、徐々に同一して一体になる感覚になります。
これは非常に興味深い事で、庭園(仮の自然)を対象にすると自然と一体になる感覚を感じる事ができます。
対象物を設けない曹洞禅とは対照的で、正直初心者ならば間違いなく坐禅がしやすいように感じます。
曹洞宗の禅は私の感覚では坐禅を深く探求してある程度の実践を前提とした禅にあるのに対して、庭園などの対象物を設けた坐禅に起こる現象は未経験者や初心者にもおこり得る感覚であります。少なくても対象物を設けた場合の坐禅は自然との調和と相性が感性的に非常に良いのがわかります。
結局のところ是が非の話ではなく、趣旨や目的が何を前提としているのかが重要であると感じます。少なくとも、現代において仏教の思想に興味の無い方は間違いなく対象物を設けた坐禅の方が目的との整合性が取れると思います。
また緊急事態宣言を終え、新型コロナウイルスが当たり前になった際には、庭園を眺める坐禅会を開催するのも悪くないかもしれません。興味のある方は住職に話しかけてみてください。その気になります。
住職 永島 匡宏 合掌
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