日に新たに、日々に新たに、また日に新たなり/住職日記
皆様ごきげんよう。
今年は梅雨入りから開けるまで短く、記録的な夏日が全国で続いています。
毎日毎日暑くて扇風機やエアコンが手放せない現代病の生臭坊主です。皆さまも熱中症などには十分にご配慮していただき、何事もなくこの猛暑をお過ごしいただければ幸です。
さて、久しぶりの住職日記になりました。今回は私にとって大切な言葉の一つをご紹介させていただきます。
「日に新たに、日々に新たに、また日にあらたなり」です。こちらの言葉は禅語ではないのですが、中学生の時に国語の授業で先生に教えていただいた時から大切にしている言葉です。
上の額にある書跡は本山修行時代にお世話になった書の先生より私をイメージしていただいて書をしたためていただいたものです。
さて、この言葉の語源は中国は商(殷)の時代湯王の言葉だと云われています。
「今日なら今日という日は、天地開闢以来始めて訪れた日である。それも貧乏人にも王様にも、皆平等にやってくる。そんな大事な一日だから、もっとも有意義に過ごさなければならない。其の為には、今日の行いは昨日より新しくなり、明日の行いは今日よりもさらに新しくなるように修養に心がけるべきである」
湯王はこの言葉を顔を洗う盤(鏡的な)に彫りつけ、毎朝の自戒にいたしました。
似たような日々はあるかもしれないが、まったく同じ一日などありはしません。一刻、一刻人の身体はは再生と破壊を繰り返し、生まれかわっています。
身体ですら日々新しくなっているのに心も新たになっているはずです。
日に新たに、日々に新たに、また日に新たなり。一日として…否、一秒、刹那にして人は新しくなっています。今この瞬間にも人は変わっているはずです。もし、今、つらいことや苦しい事があっても、身体と心は新しく生まれ変わっているのだから、必ず苦しみも悲しみも癒えるはずでしょう。
また、地位や名声で人は変わります。本来無一物、皆等しく存在として平等であるはずです。実るほど垂れる稲穂のように人も社会的に立場や環境が移り変わっても、湯王のように初心を忘れずに、一日一日を過ごしていきたいものです。
青岸寺 住職 永島 匡宏 合掌
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