コロナワクチンについて/人権について
コロナワクチンが全国的に摂取できるようになったのは周知かと存じます。青岸寺がある米原市においても高齢者のワクチン接種一回目が半数程終了しております。
ワクチン摂取は副作用がある事でも認知してされておりますが、現在でも人によって差異があり、関連性も断定できる実例が少ないのが現状かと思います。
そうした事もあり、ワクチン接種をされない方も一定数いらっしゃいます。
私自身はワクチンを自分の考えでよくよく考え、自身の意志で摂取をするつもりであります。
ただ、ここで伝えたい事、また懸念している事が、ワクチン接種をされない方への批判が増え、ワクチンを接種したものとしないものとでの対立構造ができる事です。
無論、国や世界の方針として、全ての人がワクチンを接種する事で、社会情勢が一定数の落ち着きを取り戻し、安心して経済を回していく事を第一義に考える方たちにとってはワクチン接種は当然の義務のように思っているかもしれません。
しかし、人権の観点から見れば、個人の考え方は尊重されるべきであるし、ワクチンに対してアレルギー反応が予想される方は、当然、接種は避けるべきであると考えます。
ワクチンを接種するのもしないのも、個人の権利であり、自身の考え方の違いにより批判は絶対にしてはいけません。ましてや、差別をすることは間違っております。
ワクチンを接種されない方も様々な理由があり、勉強され、接種されない判断をされています。
ワクチン接種の有無で亀裂ができる事はもっとも避けなければならない事です。
この前、市の人権学習の際に、講師の方が差別を「渦」に例えておりました。
悪い渦「差別」がおきた時、その渦に気づかずに流されそうであるならば、止まって、差別のない「渦」をつくりましょう。とおっしゃっていました。
確かにその通りだと思います。
しかし、私はそれではまた違う亀裂がおこる(渦に例えるならば)可能性があると率直に感じました。私たち仏教者ならその悪い渦から一度出て、悪い渦を観察します。そして悪い渦だと皆に気づかせて、渦をなくすようにするでしょう。しかし、実際渦をなくそうとした時には手遅れです。すでに差別はおきてしまっているでしょう。(勿論、悪い渦ができてしまったら立ち止まる癖はつけた方が絶対に良いです。そしてその渦から出ましょう)
ようするに渦ができる前が一番大事であって、渦を作らない事が大切であります。その為にも、日頃から差別について学習し、自身も差別する可能性があると理解し、渦ができるきっかけがある場合も冷静に自分で考え、自分の意志で俯瞰的に物事を観察する事がもっとも大切であります。
今から、このワクチン接種の有無についてお互いを批判せずにありたいものです。差別したい人なんておそらくほとんどいないと思います。ならば、その前によくよく考えて違いを許容する観点を持ちましょう。
仏教の考えでは差別の心をなくす事はとても難しい事です。なぜなら差別は分別する際に必ず起こる事だからです。分別とは即ち、「好き」⇔「嫌い」。「綺麗」⇔「汚い」のように人の感情そのもの。赤ちゃんをかわいいと思えば老いが恐ろしいという気持ちも起こるわけです。ですが、差別の心をなくすのは難しいですが、差別をなくす事はできます。
それは「自身」が差別心がある生き物であると理解し、差別を勉強し、時代によって変化する常識をアップデートする癖をつけていく事です。人間には理性があります。
これからおこり得る差別を事前になくしましょう。新型コロナウイルスによる差別のあった悲しい事例をもう繰り返してはいけません。
新型コロナウイルスは怖い感染病ではありますが、それ以上でも以下でもありません。ワクチン接種もそれ以上でも以下でもありません。勝手に事態を悪くして自分たちの生活を暮らしづらくしている事に気づいていたただく事が本当に大事であります。
人の否定からは肯定は生まれません。皆さん一人ひとりが当事者です。皆で困難な時こそ、居心地の良い環境を作り助け合いましょう。
どうぞよろしくお願い申し上げます。
住職 永島 匡宏 合掌
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