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二人展示「生死生」

4月30日~6月8日に青岸寺にて西川礼華氏と松井亜希子氏の二人展示展が開催されます。

両氏ともに自然の営みである『生』と『死』を作品の制作過程でたどっています。

西川礼華氏が岩絵絵具、花土布などを用い、松井亜希子氏が銅版画を用い、両氏のアプローチは異なるものの、類似性があり、お互いの作品が調和された雰囲気の展示展になります。下記は展示展に際し、助成してくださる平和堂財団様への住職からの紹介文です。

~住職紹介文~

青岸寺の宗派は曹洞宗で有り、所謂禅宗である。この両名の作者と坐禅は類似点が多く存在する。

坐禅では結果や効果を求めたりする図り事、作為(造作事)をしない。勿論、坐禅を実践する際には理由なくして実践はできない。ただ、実際に坐禅中は目的も結果も求めず只座る。坐禅中は人間としての生産性はほぼない。即ち、事実上の「死」に向かう。その状態を一般的には自我がない状態、「無」の状態だと表現されている。ただそれは結果論であり、目的ではない。坐禅は座ってる最中が全てではない。座る前と最中、座った後、日々の生活に戻っていく全てが大切とされている。これは「生」→「死」→「生」という過程をたどる。

ある禅僧が語った言葉がある。

初めにある山をみた際は、「山は山である」と語った。禅を有る程度理解した際に見た山は、「山は山でなかった」と語った。禅の境地を悟ったのち見た際は「山はやはり山であった」と語った。

この境地こそ坐禅の真髄である。

初めの「生」と「死」を経過してからの「生」では世界がまるで異なる。

さて、両作者の制作過程も「禅」に類似している事が多様にある。作者たちは制作する際に当前、作為的に制作に向かう。他の芸術作品と明らかに異なるのは制作過程にある。

本来、自我を表現し、作為そのものが芸術であり作品である。人はその煩悩を表現し、具体化した作品に共鳴や感動し心動かされる。しかし両作者は自らの作品を自然にまかせ、一度手放している。そこに「自我」は存在しえない。

出来上がる作品はどれ一つ、意図的な結果とは結び付かない。最終的には、作者がそれを完成させる。

出来上がった作品は観賞した人が判断し、作者はそれを提供し委ねている。観賞した人の状態を鏡のように映している。感想も千差万別になる。

両作者の過程も「生」→「死」→「生」の順番である。

禅寺でこの両作者が「禅」をイメージして展示する事は非常に親和性がある。

生とは、死とは、また新たに生まれる生とはなにか?この個展を通じて作者含め、観覧者には思慮しながらありのままを感じていただたい。

住職 永島 匡宏

今回の紹介文から展示展の「生死生」という題目ができたかはわかりませんが、会場を禅宗である青岸寺である事は、相性のいい化学反応が起こりそうで、非常に楽しみです。

お二人のプロフィールは他の頁にてご紹介させていただきます。

生死生展 画家 西川礼華 松井亜希子

場所 青岸寺

日程 4月30日~6月8日

時間 9時~17時(縁市の際は20時まで)

料金 大人300円 子ども100円(6月8日のみ大人500円 子ども100円)

定休日 火曜日 第4月曜、第5月曜 不定期

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