生死とは…
まず、この文章は相手を選びます。人によっては到底受け付けないような価値観も含まれていると思います。またわかりにく表現も多様していますから、あくまでも青岸寺住職の感想日記程度のものであります。誰かに届けたい事を趣旨としていない文章でありますので、ご留意ください。
さて、日本仏教の僧侶として生きていく上で人の生死は避けては通れない問題です。今までも多くの故人とお別れをし、葬送させていただきました。
昨年は母親が7年にも及ぶ闘病生活の末、亡くなりました。更には親しかった友人の突然の死もありました。
日頃から「死」を身近に感じ、「生」を考える事が多いのですが、いざ当事者となると中々気持ちに整理をつけるのは難しい事を実感いたします。
死は全ての命あるものに等し存在してます。「生」は環境的要因と先天的要因に大きく左右され、対比から生じる因果による構造から全てのものは例外なく抜け出す事はできません。それは、生まれながら優遇されているものから、劣悪環境下のもの全てが、まるで一つのプログラムのように相関関係の上で存在しております。
踏み切った話をすれば、例えば私が朝起きてから寝るまでの思考や行動は全てある種の決まり事のように必然的なもので、「偶然、奇跡、幸運、不運、運命」は全て主観的な世界で形成されているから、感じる事であり、全ての因果から起因する事柄は必然であると言えます。
と頭で理解はしていても、結局は主観的な「自己」でしか世界を捉えることは難しく、対比された分別の世界で物事を理解、形成されるのが人間です。全ての生き物に大切な音によるコミュニケーションがそもそも対比からしか存在しえないものになります。だからこそ「自己」を離れる事が難しいのは当たり前と言えます。
大切な人の「死」とは主観的な「私」から見て「生」の否定です。そこを受け入れられないのは当然の事です。死は平等と言いましたが、死に方は平等ではありません。
主観的な自己を変えたと錯覚する方法はあります。それは、「気づく」事です。それによって言動、行動、思考に変化を与える事です。ただ、それすらも、縁起における必然ではあります。
それでも私達はこの今生を生きているわけです。
全ての生命は無常であり、縁起の連なりによる相対的な現象ではありますが、人間は主観的に物語を作ります。今の時代は合理的な主観で物語を形成しています。人間の美しさは合理性と非合理性の狭間にこそ美しさがあります。
風に散る花にも意味を問わず、名もなき草に価値を求めない。だだその在りように触れたとき、人の心は揺れ動く。
人間の感性とはこの余白こそ「生」であり、「死」に対する畏怖と哀楽の心で揺れるのです。
今の社会の構造に支配されない、本当の意味での自由意志は存在しないかもしれませんが、それでも「生死」に相対した時、気づきがある生き方をしたい、そして余白を感じられる、選択できる人間でありたいと思うわけです。
小難しい事を述べていますが、実際の主観的自己の私はただの一般中年男性となんら変わりありません。お気楽に暇つぶしのように人生を生きています。
ただ、生きる意味、死の意味を考えた時、マクロに見れば全く意味のない事。しかし、ミクロに見れば個々の人生とは様々であり、無明の世界をさまよい意味を求める生命があります。これを愛おしく、美しくできるのも、人間の特権であるかもしれません。
この気づきを感じられる「仏教」「曹洞宗」の教えに出会えた事は、正に仏縁であったのでしょう。有難い事であります。
住職 慧嶽 匡宏 合掌
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