合理化された象徴である葬式/住職日記
みなさんごきげんよう。
梅雨入りし、先日の大雨で枯山水庭園が美しい池泉庭園に変化いたしました。

人間からしたら不規則に降る自然の恩恵も縁起でみれば不可思議なく調和された現象でしょう。
さて、自然は常に相違関係の中、ある種の法則のように秩序が保たれているようです。全ての生物も自然のサイクルに影響を受け、生死を全うするわけです。そこには自然と調和され、循環されている生命の働きが回り続けています。
それでは、昨今の日本人はどのような生死を考えているのか。多くの国では、信仰の有無に関わらず、多くの場合は、主要となっている宗教の生死観に基づき、葬送されております。
日本でも、基本的には仏教式、時には神式で、土葬から火葬への変化はありつつも、その後、墓地に埋葬されました。これは、神式では神の元に帰り、自然に還る意義があるでしょう。仏教では各宗派によって思想の違いはあれど、個人を仏として成仏していただき、やはり、ご遺体は骨であろうが、自然に還し、新たな命のサイクルに帰るわけです。
昨今の葬儀のありようについて、決して否定しているわけではない事をまずお伝えします。時代、環境、思想に大きく左右されますから、葬式の簡略化、家族葬、場合によっては葬儀を省き、直葬まである事は、致し方ない事であるし、我々僧侶の実力不足が招いてきた一つの因果でもあります。
我々僧侶の立場から言えば、枕経、通夜、葬儀は意義のある宗門の大切な儀礼であります。曹洞宗においては、更に葬儀式で仏弟子となり、最終的には菩薩様になっていただく大切な式であります。葬儀式なくして、中陰法要、追善法要の意義が失われるとまで言いませんが、薄まる事は間違いないでしょう。これを、しっかり故人様を仏弟子として葬送する責務があります。また、共に追善供養していく、ご遺族様にも伝える必要があります。ご戒名もこの仏弟子となっていただいた、大切な証明でもあり、菩薩になるという事は、生死を越え、故人が残されたものたちと連なり、共に生きてゆけるという大切なものなのです。
なので、曹洞宗の場合は葬儀にて受戒なくして、荼毘なく、追善供養の意義もやはり弱くなります。ここが要因で直葬を認めにくい理解になっているのです。勿論、経済的負担がある事ですから、我々僧侶も十分に留意して、対応する必要があります。布施料を明確にすることを善としている社会にあって、布施は価値をつけてはいけないものです。不可価値の行です。(実はこちらの形の方が、経済的にも十分相談できる形だと思っています。青岸寺では通常の10分の1の布施でも、経済状況を考慮して全ての供養を受けたこともあります。)
また、故人の生前関係してきた方々にその生前を偲び、感謝し、別れを惜しみ、仏弟子となって、いただく見届け人になってもらいたいのです。ご家族、親族、仕事関係、ご近所さんからご参列していただく意義があるのです。また、参列者が少ないという事は、通夜、葬儀、荼毘、追善法要の意味も伝える場も少なくなっているという、宗門としては悪循環が続いております。
(ここの事は説明が大変多くなるので省略いたしております。)
最愛の方々との別れは誰しもあります。最近では死んだ人よりも残された人達を優先にするべきだ諭が多い中、ならばこそ、合理的に死を捉えるのではなく、亡くなった後も縁起の中で生き続ける。私はこのような精神性に日本人らしい美しさを感じます。また、結局は残されたものの為になる事と存じます。
少し、話が逸れますが、SNSで、葬式などしっかりやるくらいなら、生前に良い関係を作ったほうが良い。という意見がありました。この意見については後者の意見には大賛成です。しかし、道理として、生前に良い関係を作れば、必然的に葬送の意味や価値は高まり、しっかりと故人を送ろうという気持ちになるのが、人間でしょう。古くは日本では縄文時代より、葬送の形跡はあるわけですから、この心の動きは、ホモサピエンスにとって自然な営みなのでしょう。
私達、僧侶はもっと説明や意義を伝えていく事は当たり前ですが、多くの日本人にも、今一度、生き、死ぬ事とはなにか、命のつながり、自然とのつながりを意識した生き方をみつめていただきたく存じます。
宗教という死生観でも哲学的死生観でも、自然諭でも、なんでもよいのですが、この人類の合理的ではない営みこそ、人間の美しさであり、余白であり、喜怒哀楽の人生であると思います。
私たちは、今ある命はこの命の連なりと、自然の調和で今に継承されています。
この文章は住職の感想レベルのものです。あくまでも曹洞宗の立場からみる自己の見解を述べているにすぎないものです。詳しくは、書籍などをみていただくのをおすすめいたします。
住職 永島 匡宏 合掌
この記事へのコメントはありません。