布施とは/たぬ吉和尚との小話シリーズ

たぬ吉:住職さーん‼
住職:たぬ吉君、今日も元気だね。
たぬ吉:昨年は晋山式(住職お披露目の式)おめでとうございました。住職に就任して12年目でやっと正式に住職さ んになった訳ですね。
住職:本当ならば住職就任の初年に晋山式をするのが通例ですが、なにせ晋山式は結婚式以上に資金がかかる事だから、地方の貧乏寺院ではなかなか大変な行事でした。しかし、檀信徒や関係者のご協力でなんとか無事円成することができました。
晋山式とは https://seiganji.org/cms/wp-admin/post.php?post=6957&action=edit
晋山式円成https://seiganji.org/cms/wp-admin/post.php?post=7056&action=edit
たぬ吉:それはそれは、お疲れ様でした。私も参列させてもらいましたが、住職のお姿は勿論、それを支える皆さんの姿を見て、一つの寺院が多くの方に支えれれていることがわかる素晴らしい式典でした。
住職:本当に。感謝しても感謝しきれないよ。檀信徒や関係者の皆様には任意で御寄進やご寄付をしていただき、そのお布施を元にお衣や袈裟を新調させていただきました。衣や袈裟に着用させていただいた時に、より、皆様に仏教の教えを伝え、寺院を護持継承し、檀信徒等のご先祖様や墓地を護持していく気持ちがより一層深まりました。誠に有難い事です。
たぬ吉:有難いですね。ところで、僕たち僧侶は檀信徒のお布施で寺院の護持、運営、そして食事などを施していただき、住職として生活をしているわけですよね。
住職:そうだね。勿論、滋賀県のような地方寺院はほとんどのお寺は、檀信徒が少なくて、布施も少なく、僧侶以外の仕事として、一般の仕事をしています。しかも、その収入を寺院に入れながら、やっとこさで生活しているのが現状ではありますが、それでも寺院の中心的骨格になっているのは、法事や葬儀などのお布施が中心になっています。青岸寺でも檀信徒が少ないのが現状ですから、収益事業(税金のかかる業務)をしながら、なんとか寺院を護持しているのが事実です。
たぬ吉:世間では坊主丸儲けみたいな話がよく出てるし、ベンツに乗ってウエーイ‼みたいなイメージもありますよね。税金もかからないし、余裕でしょ?みたいな。
住職:これは、殆どの僧侶、特に地方僧侶が迷惑に思っている風評被害のようなものです。さきほど言ったように、殆どのお寺は普通の仕事をしながら、更に寺院の運営をしています。通常は宗教法人ですので、法人から給料(課税対象)が住職にでます。個人として税金を払っているし、更に、寺院からそもそも給料すら出ない寺院が多くあります。この実態が大半なのです。私達僧侶も社会からどう見られているかを考え続けなければなりません。勿論自身も鑑みながら、精進しなければならないのは大前提の話であります。
たぬ吉:住職さんはこのあたりの事を以前から考えてますよね。でも、実際に法事や葬儀、戒名料などは、お布施になります。その際に「お気持ちで」という事に、一般の方は困っているし、布施料を明記してくれない事に不信に思っています。また、お気持ちを渡した結果、僧侶によっては、更なる布施額を要求されたなどの話をよく聞きますよ。
住職:確かに。私も現代人の常識と感覚を以て今を生きていますので、このご指摘はよく理解できます。しかし、僧侶側にもお布施を「お気持ちで」としか答えられない理由もあります。むしろ、お布施に価値を明記した瞬間にそれは、布施ではなくなり、代価として商品になります。布施は値段が付けられないところに意義があり、価値をつけてする行いではないという事です。しかし、僧侶側も「お気持ちで」といった限りは、そのいただいた「布施」に対して、更なる要求をすることは、この行為も「布施行」ではないと言えます。ですから、もし、布施の額を要求するのであれば、その僧侶はしっかりと布施ではなく料金として商売として提示するべきだと思っています。
たぬ吉:なるほど。でも、一般の方からは、僧侶の事情なんて関係ないし、「お気持ち」なんて言われたら、試されているのか、嫌なクイズみたいでいい気持ちはしないと思います。
住職:そうだね。ここについては、今までは地域共同体が強く、その一族も基本的には土地に残り、地域の一員として生きていました。そうすると、基本的には、神社や寺院はその地域の中心的役割を担っていましたし、例えば「布施」の額も決まっていましたし、悩む必要がなかった。僧侶側も檀信徒などと今よりは蜜でしたので、相手の経済状況も理解できているので、調整はできたのでしょう。しかし、葬儀、法事の簡略化、共同体の瓦解、により、「おきもち」が通じなくなってきたのです。これは、一つに僧侶側がやはり、布施の意義や大切さを説明責任を放棄、、または理解していなかった為の結果が今日の摩擦の原因の一つといえます。
私自身も布施額を尋ねられた時は「お気持ちで」と答えますが、それでも教えて欲しいと要求されれば、勿論、相場的な表現で明示します。その後で「ご自身の事情で大丈夫ですからね」と伝えます。私の師匠などは逆に多すぎると返していましたからね。そんな僧侶もいるという事です。
たぬ吉:わかりました。それでは、「布施」の意義、意味を教えて下さい。
住職:一言で言えば、布施とは「見返りを求めず、与える修行です。」
たぬ吉:修行ですか?読経の御礼とかお寺への御寄付の事ではなくて?
住職:その側面もあります。しかし、仏教において布施は、僧侶のためだけのものではありません。むしろ布施をする人自身の修行として大切にされてきました。
たぬ吉:支払っている側の修行?どういう事ですか?
住職:私達は普段、「私の財産」「私のお金」「私の時間」と考えています。主観的にはそうですね。しかし、本当にそれは自分だけの力で得たものでしょうか?
たぬ吉:それはそうでしょう。自分で稼いだのだから自分のものでしょう。
住職:そう思いますよね。しかし、その仕事ができるのも会社やお客様、家族、地域社会など、多くの連なり、ご縁があるからです。私達は一人で生きているようで、実は多くの人との関りの中で生かし生かされているのです。
たぬ吉:確かにそうですね。
住職:仏教ではこれを「縁起」といいます。すべては様々な縁の連なりによって成り立っているという教えです。そうすると、自分の財産もまた多くのご縁によって成り立っていることが理解できます。
たぬ吉:なるほど。布施とは、そのご縁への感謝報恩でもあるのですね。
住職:そうだね。そして布施行にはもう一つ大切な事があります。それは、布施には執着を和らげる意味があるということです。
たぬ吉:執着ですか?
住職:例えば「これは絶対に手放したくない」「損をしたくない」と思う気持ちは誰にでもあります。しかし、その心が強くなりすぎると、苦しみの原因になります。だからこそ、自ら進んで与える行為が修行になるのです。
また、決められた金額を払うものではなく、その時の自身の経済状況など鑑みて、その中で自分で決めてお布施額を決める箏も大切です。
たぬ吉:だから金額ではなく「お気持ち」なんですね。
住職:本来はそうだね。布施は値段で測れるものではなく、その人の感謝や志によってなされるものです。ですから仏教では、布施そのものを尊い修行としてきました。また、僧侶も読経、法話、布教などの行の布施、法の布施、仏道を共に学ぶ布施をお返しする修行としています。
たぬ吉:でも、やっぱり現代では難しい部分もありますよね。
住職:そうですね。だからこそ私達僧侶も「お気持ちです」というだけではなく、布施の意味や寺院の現状を丁寧に説明していく責任があります。
こんな例があります。葬儀や法事の後に、「大した金額でなくて申し訳ないです」と言われる方がおられます。
しかし私は、その方が家族を送り、ご先祖様を偲び、お寺とのご縁を大切にしようとしてくださったこと自体が有難いのです。
布施とは金額の多少を競うものでもなく定めるものでもありません。
その方が、どのような気持ちで仏様やご先祖様に向き合ってくれたかが大切だと思っています。
私自身、お寺を維持するために収益事業を行いながら生活をしています。だから現代社会のお金の大切さも良く理解できます。
だからこそ、無理をしていただきたいとは思いません。
ただ、その中で少しでも仏様とのご縁を大切にしよう、お寺を支える一助をしようとお気持ちをいただけることが僧侶として、なにより有難いのです。
たぬ吉:最後に住職さんが考える布施とは何ですか?
住職:私は布施とは「支え合いの心」だと思っています。
布施行には種類があります。
・財施 お金や衣食、物資などを必要としている人に施すこと
・法施 仏教の教えや、人生で学んだ知恵を、惜しみなく伝え、人の心の迷いを取り除くこと
・無畏施 恐怖や不安、悩みを取り除き、安心感を与える箏。
他にも眼施、和顔悦色施、言辞施、身施、心施、床座施、など、物質的ではなく無財の布施行もあります。
お寺は檀信徒や地域の皆様に支えられています。そして私達僧侶は、その御恩に報いるため仏法を伝え、ご先祖様を供養し、寺院を護り続けていきます。
布施とは、お金のやり取りだけではありません。お互いが支え合い、感謝し合い、そのご縁を未来へ繋いでいく行いです。
私はそのように考えています。
たぬ吉:お布施には沢山の意味や意義があったのですね。
しかたがないですね。私の今晩のおかずの油揚げ一枚あげますね。その代わり何か布施して下さい。
住職:だから、それは対価交換でしょ。だめだこりゃ(笑)
※長文にお付き合いいただき有難うございました。下記に布施を象徴する話を書いております。更にお付き合いしていただける方はご覧になって下さい。
住職 永島 匡宏 合掌
元々「布施」は文字通り布を施す、要するに僧侶に「袈裟」を施す故事からきております。なので、昨年の晋山式において、檀信徒より布施の浄財を賜り、袈裟を作成させていただきました。これは、お布施の中でも僧侶にとっては大変有難い事で、特に宗門では、袈裟を譲りうけるという行為は、大変有難い、認可の証明でもあります。
お釈迦様の時代はいただいた布を縫い合わせ、縫袈裟として最低限の衣服として着用していました。
こんな故事があります。
昔の僧侶は衣食、そして生活に必要な最低限のものを托鉢して生活しておりました。
お釈迦様はこの時既に有名な僧侶でしたから、みなこぞって布施を施していたそうです。
お釈迦様は必要以上のものを貰わずに、托鉢をして修行しておりました。
ある日、同じように托鉢をする為に村はずれのボロボロの民家の前を通りました。
お釈迦様のお弟子は「仏陀よ。ここの家から施せるものはなにもありません」と言いました。
それでもお釈迦様はその民家を訪ねて、托鉢をしたのです。
民家には幼い赤子を抱いた女性がいました。女性は高名なお釈迦様が来られて、大変感激したのと同時に恥ずかしそうに言いました。
「おお、お越し頂き、大変有難いのですが、みての通り、この家には施すものはありません。」
女性は困りながらも一枚の糞掃衣(布オムツ)を渡しました。
「誠に失礼ながら、こんなものしかございませんが。」弟子たちはとっさに怪訝な顔をしました。
お釈迦様は他の布施と同じように有難く糞掃衣を頂戴しました。
そして、その糞掃衣を繋ぎ合わせ、袈裟として次の日から身に着けたのです。
弟子は「仏陀よ。そのような糞に塗れたものを着ないで下さい」と嘆願しました。
お釈迦様は「布施に綺麗も汚いもない。良いも悪いもない。しかし、あの女性の気持ちは他の布施よりも尊く、有難いお布施なのだよ。」と答えました。
この故事からわかるように、布施行とは対価ではなく「無条件の施し」になります。これが、今日の「お気持ち」につながっているのです。この「無条件の施し」なくして、布施行にはならない。条件をつけたら「布施」ではなく条件付きの施しになり、対価になるという事です。
私達は余りにも資本主義的な価値観に支配され、本当に意味での助け合い、価値のつけられない大切なものを見落としている気がします。布施の考えは確かに、現代の社会常識では理解されずらい価値観だと、思っています。しかし、この無条件で施しをし、そしてまた対価を求めない繋がりもまた、人間たちが営んできたものでもあります。この縁起を今一度大切にできたら、もう少し気持ちのいい社会が実現できるのではないかと模索しているところであります。大変な長文にお付き合いいただき有難うございました。
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