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104歳の草取りに仏法を見た/住職日記

8月のお盆シーズン。私が檀家のお盆参りをする為に田舎の田んぼ道を歩いて家の前に着くと、その近くで草引きをしているおばあちゃんがおりました。声をかけても聞こえてないようなので、先にお家に上がると女性の方(50歳くらい)がいらっしゃたっので、「暑い中、お母さん凄いですね。」と声をかけたら、女性の方が、「あそこで作業しているのはおばあちゃんですよ。今年で104歳になります。暑いから草引きはやめてといっているのですが、日課だからといって自分で草を引いてるんです」

「104歳ですか?」私は思わず聞き返してしまうほどびっくりしました。

読経を終え、家を出ると、おばあちゃんが草引きをもくもくとしていて、その姿が妙にさまになっているというか、腑に落ちる姿というか、まさに「草引きの姿」になっていました。まるで、長い年月坐禅をしている僧侶の坐相のように、全てが調和されているように感じたのです。私は思わず手を合わせたくなりましたが、家から女性が見ているかもしれないと思い、合掌はやめましたが、暫く目が離せなくなりました。

ふと、道元禅師の典座教訓に出てくる老僧を思いだしました。

道元禅師が当時の中国(栄)にいた頃、阿育王山で老いた典座(料理を担当する僧侶)老師が暑い中海藻を干していた。道元禅師は疑問に思い典座に聞いた。「なぜ、そのような作業を若い者にさせないのか。まして暑い中に苦労される事ではないでしょう。」

典座老師は「他は是我に非ず」と答えた。

「一日一日と私の身体は今此処にあるのみ。他人がこれを変わる事などできない。まして、仏道ならば尚の事である」

要するに他の人が自分の仕事をしてしまったら自分の修行にならないと答えたわけです。

道元禅師は「その仕事を老師がする事がどうして仏法だといえるのか?」と伺うと、

典座は「今時、上座、未だ道取を知らず」ようするに「君はまだわかってないね。」と言われたのである。

道元禅師は頭をたれ、料理や掃除などはあくまでも修行ではなく、生活の生業だと思っていたが、誠の仏法とは、これは修行、これは違うという「二元論」的な考え方ではなく、食事、作務、坐禅、読経、これらを分けて考えるのではなく、すべからく仏法となる事を理解したのです。

道元禅師は断見(決めつける事)を嫌いますが、この経験が後の道元禅師の思想である本証妙修、修証一等の源泉となっていると思います。

草引きしているおばあちゃんは修行だと思って草を引いているわけではないですが、「他は我に非ず」と私のできる事をできるタイミングでする。「後で」「他の人に」ではなく、「今」「私が」草を引くのだと。それが日常として当たり前としての姿がそこにあったわけです。その行為に分別(すき、きらい)のない仏の姿を感じたのです。

104歳の後ろ姿に仏法を教えていただいた気がした私は、今度はしっかり合掌し、最後におばあちゃんに声をかけ、やっぱり耳が遠く聞こえず、次のお参りに向かいました。

※典座教訓の話は大筋は一緒ですが、だいぶ言葉や背景を省略しております。気になる方は調べてみて下さい。また、青岸寺ブログは住職の思い付きときまぐれ、感想程度のものですから、住職の独り言として聞いて下さい。

住職 慧嶽匡宏 拝

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