たぬ吉和尚の体験録 「坐禅体験」
みなさん、こんにちわ。たぬ吉です。
青岸寺では坐禅会を月一回、第二土曜日に開催しているのですが、それ以外にも一般の方に向けて坐禅体験ができるみたいです。
僕も曹洞宗のお坊さんの端くれですから、坐禅をしますが、どうしても雑念がでてきて上手に座れません。そこで、今日は住職さんに、坐禅のコツを伝授させていただこうと思います。
たぬ吉「住職さん。こんにちわ、今日は住職さんに坐禅指導してもらいにきました。」
住職「たぬ吉君。普段坐禅の時間になると、急にいなくなるのに、今日は珍しいね。」
たぬ吉「それは内緒ですよ。今日の僕はいつもと違って座る気満々です。」
住職「…そのヤル気はよし。ではとりあえずおさらいも兼ねて曹洞宗の坐禅指導をするね」
たぬ吉「はい‼」
住職「まず、坐禅は曹洞宗の修行の中でも中心にあるものです。宗門では「只管打坐」という言葉がありますが、坐禅の中で本証(仏の悟り)を自覚し、修行(妙修)をする事。併せて「本証妙修」と言い、坐禅中に自己の仏に気づいたのだから、その仏の働きを保って(禅定力)、日々の生活全てを修行とする思想です。
この自己の仏の働き(気づき)を感じて、修行を生涯続ける事こそ「修証一等」といい、曹洞宗(道元禅師)の根幹的な考え方といえます。その中心が「坐禅」なのです。
たぬ吉「普通は悟ったら、修行しなくても仙人みたいになんでもできる超人みたいなイメージですが、曹洞宗は全ての一切には仏の働きがあるのだから、悟った後も同じように修行を続けるという考え方なんですね。でも一般の方は別に悟りたいわけでもなく、生涯修行したいわけでもないと思いますが。」
住職「そうだね。悟って永遠に修行するなんて言われたらハードルは高く感じるかもしれませんね。だから、一般の方には、仏に気づく前に、自分を知っていますか?と問いかけます」
たぬ吉「自分の事ですか?」
住職「坐禅という修行は端的にい言えば、「何もしない修行」です。ただ、座っているだけですから、実質何もしていないわけです。何もしてないと実は何か常にしようとしている自分が現れます。雑念を繰り返す私、呼吸が上手くできない私、五感の振り回されている私、何もしないようにしようとすればするほど、何かしている自分がいます。これは当たり前で、「何もしない」をしようとすれば、一生の人生で何かし続けている私が現れてきます。自分の性格、環境、人間関係、朝から坐禅にいたるまでの状態。全てがこの「何もしない修行」に「何かしなければならない潜在的な生命の働き」が邪魔をするわけです。
たぬ吉「それはそうですよね。この世に生を授かり、まずは母を求め、泣いて自らの生の為に生命活動をいたします。育った後は言葉を覚え、学校で勉強し、受験し、仕事をします。この構造の中で僕たちは生きているのだから、何もしないなんて難易度が高いですよ」
住職「まさにそれです。私達は生まれてから死ぬまで「条件付き」の活動をしているのです。全ての苦しみの要因でもある「煩悩」はこの「条件付き」の生と固く結ばれており、良くも悪くも相関関係の元、成り立っています。坐禅はこの「条件付き」の世界から一歩立ち止まり、座り「無条件」の中に身を置く事が大切なんです。
たぬ吉「無条件ですか?対価をおかないという事ですか?」
住職「そうだね。仏教では、一切皆苦であります。この根本的な要因は煩悩の働きにあります。この煩悩の悪い働きの原因は分別する私の心にあります。この分別する私から離れ無条件になれる手段が「坐禅」になります。坐禅をしていると、普段、条件をつけて生きている私が邪魔をしてきます。そうすると、ありのままの自分がそのまま表れてきます。まずはその自分を知る事が大切だと考えます。
たぬ吉「坐禅自体は空っぽの器のようなものなのに、坐禅をいざしてみると、器の中身にはいろいろありすぎて溢れてしまっている事に気づくわけですね。そして、それを自覚する事が大切だと。」
住職「坐禅は心身が乱れていたら座れません。ただ座る行為ができなくなるのです。その原因はなんであろう?そこを参究するだけでも、自分を知る為の測りになると思っています。そして、自分に悪さをしている器の中の要因を見つけて、一つずつ解決する、もしくは手放す、離れる、など具体的な行動をしていくのです」
たぬ吉「なるほど。坐禅すれば解決ではなく、坐禅を中心として、自己を観察し、心身に波のない自分を整えていくのですね」
住職「今日はなかなか優秀だね」
たぬ吉「いつも優秀ですよ」
住職「さて、坐禅をするには三つの「調える」があり、その三つを調えると必然と坐禅になると教えられます」
たぬ吉「なんでしょうか」
住職「一つは身を調える「調身(ちょうしん)」二つ目は呼吸を調える「調息(ちょうそく)」三つ目は心を調える「調心(ちょうしん)」と合わせて三調(さんちょう)といいます。
たぬ吉「三調‼必殺技みたいでカッコイイですね」
住職「…とにかく、この三調については実際に坐禅会や坐禅指導の時にお伝えするものですから、ここでは割愛しますが、僧侶も一般の方も共通する事は、坐禅の前後がとても大切だといえます。」
たぬ吉「前後ですか」
住職「坐禅する前の心身の状態、例えば誰かと喧嘩したばかりだとまともに座れません。寝不足ならば坐禅中眠くなります。体の調子が悪ければ気になって座れません。寒暖も高すぎても低すぎてもいけません。坐禅する前の環境や状態も大事です。また、坐禅の後も、終わった後、デートだとか、仕事があっては、雑念の元です。終った後こそ、坐禅の調えた状態は大切にしてもらうのが良いかと思います。このように坐禅の前後も大切です。僧侶の修行はこの考え(修証一等)を元に、日々の生活を設計しております。
たぬ吉「なるほど。坐禅すればオッケーではなく、坐禅があるのだから、前後を大切に坐禅できるように調整する。そして坐禅の中で気づきがあれば、その都度、自身の生活に照らして、改善して、心身共に波を作らない、作りずらい自己になっているのですね。」
住職「はじめは目的(条件付き)として坐禅を初めてもいいですが、やがて目的を持たずに(無条件)座れれば、それは所謂、「只管打坐」と言えます。
「只管打坐」(無条件空の禅)になった時に現状に仏の働きに気づくといいます。」
たぬ吉「やっぱり坐禅はとても大切ですね。この後、彼女のタヌ美ちゃんとのデートがありますが、坐禅頑張って座ります」
住職「頑張って座るのも、デートもあかんって言ってるのに(笑)さすが、たぬ吉君だね」
たぬ吉「有難うございます」
住職「(ほめてない)…たぬ吉君はおいといて、皆さんも小難しい説明があったと思いますが、とりあえず体験してみましょうの精神が「禅」の根幹です。誰でも上下なく、初心者も古参もないのが坐禅です。気軽のご連絡下さい。また、曹洞宗の坐禅は目的をおきませんが、皆さんは目的をもって気軽にお越しください。姿勢がよくなる為、日頃の喧騒から離れたい、集中したい、なんでもいいのです。青岸寺坐禅は未経験者、初心者向けの坐禅体験ですから、安心してご連絡下さい。部活動、研修、個人様、老人クラブでもなんでも受け入れます。都合が合えば出張も致します。どうぞ宜しくお願いします。」
住職 永島 匡宏 たぬ吉 拝


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