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住職与太話「みる」

見るという事は不思議なもので、同じ風景を見ていても、条件が変われば違う風景に認識します。

同じ庭を見ていても、日照時間の経過によって影ができる場所や日があたる場所があったり、夕暮れになるとあかく色づくと思えば、ブルーアワー(マジックアワー)のように青く染まることもあります。太陽が沈めば勿論、月の光だけに照らされます。夜でも照明を照らせば、雰囲気は変わりますし、照らし方、配置、ライトの色彩変化によっても見え方が違います。

私達は視覚というものに、情報の多くを依存しています。日本の庭園や芸術などは、この視覚を最大限に利用して発展してきています。わびさびなどの余白の美しさや、建物設計も工夫が見れます。

この「みる」行為は多くの情報を認知します。それらの情報を「真実」として捉えがちな事が少しややこしい問題です。

「銀碗に雪を盛り、明月に鷺を蔵す」曹洞宗で読まれる宝鏡三昧という経典の一説にある言葉です。

白いお椀を雪がある場所においたら、私達は銀碗と雪を見分ける事が難しいでしょう。また、明るい月の光の白い中に白鷺がいると、風景に馴染み、見えない状態にあります。

本来は、雪と銀碗はまったく違う物質です。また、月と鷺は場所などにも違いがあります。どちらも、雪の中に銀碗はあり、月の光の中に鷺がいるのに、私たちは視覚として捉える事ができないという事です。これは、私達の心や思考も同じ事が言えて、心や思考も本質を捉える事は難しいのです。

私たちは五感(視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚)を大元に情報を得ています。その中でも視覚からの情報は大多数を占めており、その視覚が実は正確な情報をキャッチしていないかもしれない事を認知しなければならないのです。

この「みる」ことは多くの人間、生き物が最重要の情報としてよりどころにしておりますが、「見え方」では、まったく違います。他生物は視覚機能やそもそも見えている世界の色も違います。人間は同じ見る事はできますが、個人が「みえている」世界は多種多様で差異が明確にあると言えます。

例えば同じ学校に同じ教室にいた学生でも、友人、先生、学校の印象、全て視点の変化によって様変わりしております。

このように「みる」は多くの人にとって重要な情報源であり、心や意識に影響を及ぼしている重要なものだと言えます。

これらは仏教では、本来の本質を見極める見方を、「正見」と言ったり、「如実知見」と言ったり、曹洞宗では特に「ありのまま」を捉え、道元禅師は多くの言葉を残されていますが、一言に「みる」を考えても、かなり奥深いものであります。

観音菩薩にも「観る」があります。この観るはその本質、物事は移り変わり、肉体も心も変化する状態を「みる」わけです。その本質的理解がなくて、私たちをお救いに導く事はできないでしょう。

今、このブログを「みている」方はどのように「みる」のか、大変興味深い事であります。

与太話でした。

慧嶽匡宏 拝

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